中国のポータルサイト・新浪に4日、「第2次世界大戦中に、尊敬に値する日本人が1人いた」とし、その人物にまつわるエピソードを紹介する記事が掲載された。
 
 記事が紹介したのは、旧日本海軍の工藤俊作中佐だ。記事は、工藤中佐が1901年に日本の農家に生まれ、20年に海軍兵学校に入り研鑽を積んだ後、「夕張」、「長門」といった戦艦に配備され、優れた能力により順調に出世していったと伝えた。
 
 そして、少佐時代の40年11月に駆逐艦「雷」の艦長となり、その後起こるエピソードにつながることを説明。部下の兵士の回想として、工藤中佐は柔道で高い段位を持ち大柄な体格の持ち主だったが、同艦艦長時代は鉄拳制裁を禁止するなど柔和な性格の持ち主で、部下とも分け隔てなく接していた事から艦内は常に和気あいあいとした雰囲気にあったと紹介している。
 
 その上で、同艦艦長のまま太平洋戦争開戦を迎えた工藤中佐は42年3月、スラバヤ沖海戦で英国の巡洋艦「エクセター」、「エンカウンター」などを撃沈した際、翌日の航行で海上に漂流している数多の敵兵を発見、日本の艦船に見つかった漂流兵らは死を覚悟したが、工藤中佐は部下に対して救援の指示を出し、艦上に救援の国際信号旗を掲げて救難活動を開始したと伝えた。
 
 この活動により敵兵ら422人の漂流者を救助すると、工藤中佐は彼らの身体を拭き乾いた服に着替えさせるよう部下に指示、事態が落ち着くと艦上で英語にて「勇敢に戦ったあなた方は日本帝国海軍の賓客だ」とスピーチし、食料や水、タバコまで支給し、2日後にオランダの病院船に捕虜を引き渡したとしている。
 
 記事は、実際に救助された当時の兵士には工藤中佐は今も「命の恩人」として記憶に残っていると紹介。一方で工藤中佐は79年に死去するまで家族に対してもこの件について一切語ることはなく、当時救助を受けた一人で後に外交官となった英国のサムエル・フォール氏が今世紀に入って工藤中佐の墓参を実現すべく活動したことで初めて広く知られるようになったと伝えた。(編集担当:今関忠馬)(イメージ写真提供:123RF)