日本の学校教育は、これまで「機会平等」を目指し、どの子どもにも等しく教育を受ける機会を与えようとしてきた。しかし、最近では「教育の機会格差」が広がっているという。中国メディアの捜狐はこのほど、「日本は教育の機会格差を容認するようになっている」と指摘する記事を掲載した。

 記事は、近年の日本の教育は「格差が広がっている」と指摘し、やる気と能力のある子どもには教育の機会を平等に与えるというのは、過去の話になっていることを強調し、今は教育の機会は「親の学歴と収入に比例」するようになっていると論じた。そのため、高学歴のエリートの子どもは、親と同じように一流大学に入り、高給取りになるのだと説明している。

 しかし、日本には学費の安い公立大学や奨学金制度もあるのではないだろうか。記事は、確かにこうした制度は「教育の機会平等」を目指していたはずだが、現実には国立大学であっても貧困家庭の子どもは受験競争で不利なのは変わらないと指摘している。例えば、東京大学に入学する生徒の家庭はほとんどが裕福で、親も東大卒が多いそうだ。裕福な家庭は子どもにより良い教育を施すことができるので、一流大学に入りやすいという流れになっていると伝えた。

 中国は日本以上の学歴社会であり、受験戦争も日本以上の激しさだが、教育の機会格差という点でも日本以上と言える。中国は都市部と農村部のどちらに戸籍があるかで受けられる社会サービスに大きな格差があり、農村戸籍を持つ子どもは教育レベルの高い都市部の学校には入学できないと言われる。また、同じ都市部でも、どの学区に家があるかで通える学校が大きく異なるため、裕福な家庭は優れた学校のある学区に家を購入しようとする。それゆえ、優れた学校がある学区の住宅は価格が高騰する傾向にあり、中国の場合は普通教育の段階でも金銭的豊かさを背景とした機会格差が生まれていると言えるだろう。

 日本は江戸時代の頃から識字率が高かったことが知られている。これは教育が比較的公平に提供されていたことを示している。日本は現在でも義務教育として、すべての子どもに9年間の普通教育を提供しているものの、高等教育においては確かに機会格差は拡大し、「機会の不平等化」は着実に進んでいるようだ。

 これを改善するには、まず「仕方ない」とあきらめる考え方から変えなければならないだろう。中国では「子どもが優れている国は、国も優れる」という意味合いの「少年強則国強」という言葉が広く知られているが、この言葉は教育の本質を突いている。日本は教育機会の格差を広げるのではなく、教育の質の向上や機会格差の縮小を通じて、全体の底上げを目指すべきではないだろうか。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)