「遣唐使」は日本が当時の先進国であった唐から、進んだ技術や文化を学ぶために派遣した使節だ。実は、日本だけではなく、朝鮮半島にあった百済や新羅も遣唐使と同様の使節を派遣していたが、日本のほうが唐から多くを学び取ったと言えるようだ。中国メディアの快資訊は12日、「百済や新羅は日本より頻繁に遣唐使を派遣していたというのに、なぜ日本の方が多くを学ぶことができたのか」と題する記事を掲載した。

 記事はまず、遣唐使の頻度について、百済や新羅はおよそ2年に1度の頻度で派遣していたのに対し、日本は200年以上の期間に20回程度だったと紹介。遣唐使の回数については諸説あるが、百済や新羅と比べるとずっと少ないことは明白だ。この理由について、記事は「距離的な要因」を挙げているが、日本はその分、1回あたりの規模が大きく、700人近くを派遣したこともあると、その意欲を強調した。

 それにしても遣唐使の派遣頻度が少なった日本が、なぜ頻繁に遣唐使を派遣した百済や新羅以上に唐から学び、より多くを導入できたのだろうか。これは「日本人が全面的に学んだこと」と関係があると記事は分析。遣唐使は派遣されるたびに長い場合は数十年にわたって唐に滞在し、法令制度から文化、建築、服飾、飲食に至るまであらゆるものを学んだからだと説明した。

 そのうえ、日本は単にそのまま模倣するだけではなく、日本の国情とうまく結び合わせ、多くのことを包含できる現実的なシステムに仕上げて導入したと分析。日本人は当時から外国から学ぶことに長けていたと解説した。

 遣唐使の時代は航海技術もまだ発達しておらず、多くの危険と隣り合わせであり、そんな危険を冒してでも唐の文明を持ち帰ろうとした当時の日本人は、かなりの勇気があり、またそれだけ切実だったとも言えるだろう。現在ではそのような危険はないとはいえ、優れた点は外国からも積極的に学ぶという長所を失わずにいたいものだ。(編集担当:村山健二)(イメージ写真提供:123RF)