日本経営管理教育協会が見る中国 第563回 ――三好康司

 私が企業相談員を務めている墨田区役所の敷地内に「勝海舟」の銅像がたっている。彼は東京都墨田区の生まれである。激動の時代である幕末から明治に生きた彼から学べることは何だろうか。

1.建立の記より(抜粋)

 銅像下にある「建立の記」には、次のような内容が書かれている。

 「勝海舟は、幕末と明治の激動期に、世界の中の日本の進路を洞察し、卓越した見識と献身的行動で海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成した。西郷隆盛との会談によって江戸城の無血開城を取り決めた海舟は、江戸を戦火から救い、今日の東京の発展と近代日本の平和的軌道を敷設した英雄である。」

 海舟と言えば、「江戸城無血開城」での会談が名高いが、今回はそれ以外の2つの事柄を考えてみたい。

2.幕政改革への上申書

 彼は貧しい旗本の息子であり、決して将軍にはお目見えできない立場で生まれた。20歳頃にオランダ語の勉強を始め、一年ほどで文章が書けるようになったという。海外知識に興味があった海舟は、阿片戦争で清国がイギリスに敗れたとの報を受け、危機感を抱く。そして、黒船来航以前に「もし外国の船が来航すればどうすべきか」を書物にも纏めていた。

 1853年、遂に黒船が来航する。老中・阿部正弘が広く募った700もの中から、海舟の上申書が採用される。「将軍の御前で、内政・外交の討議をする」、「軍艦を建造するとともに、貿易を行う」、「西洋式軍隊に改めるとともに、教練学校を作る」など、当時では先進的な内容であったことが分かる。「国を守る」という使命感のもと、必死になって考え抜き具体的な対応案を示す、日本人にとって大切な、学ぶべき点である。

3.長崎海軍伝習所

 その後1855年、海舟はいよいよ幕政に参加するようになる。将軍にお目見えするなど夢のまた夢であった立場を、自力で変えていく。そして、自前の海軍が必要であるという考えを実行に移し、1855年に「長崎海軍伝習所」を創設、3年間、長崎に滞在した。その間に薩摩藩主である島津斉彬にも拝謁したそうだ。この頃から薩摩藩との関係ができていたことが、後の西郷隆盛との会談にも影響したのではないだろうか。そして、伝習所において五代友厚、佐野常民、榎本武揚などの人材の教育も行った。ネットワーク作りと人材育成、日本の発展には欠かせないポイントである。

 海舟は、1899年に亡くなるが、最後の言葉は「コレデオシマイ」であったそうである。令和の世になっても、一歩先をゆく考えをもち、海外とのネットワーク作りを怠らず、そして後進となる人材を育成していく、そんな日本であればと、勝海舟の銅像を見ながら思った次第である。(写真は、墨田区にある勝海舟像。提供:日本経営管理教育協会)