日本経営管理教育協会が見る中国 第507回--水野隆張

■日中間の重要人物の交流

 長い日中間の人的交流には多くの人々が行き来してきた。まず思い起こされるのが鑑真和上である。揚州の高僧であり、六度にわたって渡航を試み、754年についに日本にたどり着いたのである。律宗を伝えただけでなく、中国の薬品や書籍、仏教建築の知識などをもたらした功績が偲ばれる。その後も日中間の重要人物の交流は続くのである。過去には両国の著名人の交流が続いていた。

 日本が遣唐使を派遣した時代には。阿倍仲麻呂という留学生がいた。彼は当時中国の著名な詩人「李白」と交友を結んでおり、帰国に際して、李白は彼の遭難の知らせに接すると、追悼の詩を書いている。実際には仲麻呂は遭難してベトナムにたどり着き、再び中国に還って生涯を過ごし、中国に骨を埋めている。

 そのほか天台宗の円仁も、中国で10年近く生活している。彼の漢文の日記「入唐求法巡礼行記」は、当時の生活を知るうえで貴重な記録となっている。明末清初には、満州族が中国の中心部に入ったのち、一部の漢民族の人々が日本に赴いて援助を求めた。朱舜水はその一人で在り、ラーメンは彼が伝え、日本で最初にラーメンを食べたのは、水戸藩主の徳川光圀であったと言われている。東京の小石川にあるかっての水戸藩の藩邸である「後楽園」は、朱舜水の提案で命名されたものである。

■多くの一般人や留学生の交流も続いた

 その後も多くの中国人が日本に生活の道を求め、包丁、ハサミ、カミソリという「3つの刃物」で生計を立てた。長崎の「唐人町」、神戸の「南京町」、横浜の「中華街」は中国人が集まって住んでいる場所である。日清戦争後、特に科挙制度が廃止されてから、多くの中国の青年が欧米や日本に留学するようになった。

 魯迅もその中の一人である。彼が著した「藤野先生」は中国の国語の教科書にも採用され、中国ではよく知られていた。大量の学生が来日したことにより、中華料理店が発達し、例えば「ちゃんぽん」は長崎の「四海楼」でもともと留学生のために作られたもので在る。東京の神田で多くの中華料理が店を開いたのも、留学生に食事を提供するためのものであった。

■日中関係の人的交流の回復を切に望みたいところである

 日中戦争は日中間に深い傷跡を残した。田中角栄によって日中関係が国交回復した後中国の経済発展と相まって、日本と中国との貿易額は拡大し、人的交流も増加の一途をたどった時期もあったが、中国のGDPが日本を凌駕したしたころからインターネットの普及も相まって現れた扇情的なナショナリズムは中国各地で大規模な反日暴動なども起こって日中関係は最悪の時期を迎えるに至っている。

 しかしながら日中間の長い歴史からすれば現在の日中関係は一時的なものと理解したい。両国の関係が再び過去のような友好的な関係に戻ることを切に望みたいところである。(写真は、横浜の中華街。提供:日本経営管理教育協会)