(57)無いはずの“锺”の字が

 「鍾」と「鐘」の発音がどちらもzhōngであるところから、簡体字は“钟”の一字に統合されたために、繁体字に戻す際にしばしば混乱をきたすということは、前回書いたとおりです。

 このことに関して少し補足しておきますと、「鍾」「鐘」ともに“钟”に統合された以上、“锺”という簡体字は存在しないはずなのに、例えば先に挙げた『囲城』の著者銭鍾書さんの名は、しばしば“钱锺书”と印刷されていました。

 或いは銭氏自身が筆名の「鍾書」を“钟书”と書かれるのを嫌っていたのではとも推測されますが、氏はすでに故人となっていますので(1998年歿)、確かめようがありません。「集める」(鍾)と「かね」(鐘)では、こだわりたくもなりそうですね。

(58)“锺”の字が認められた

 先頃、なにげなく最新版の《现代汉语词典》(第7版、2016年10月刊)を繰っていたら、このありえないはずの“锺”が載っているのにびっくりしました。姓の場合に限ってこの字を使うとあります。

 同様の記載は第6版(2012年6月刊)にすでにあり、第5版(2005年6月刊)にはまだありません。

 《新华字典》の最新版は第11版(2011年6月刊)で、ここにも“锺”が載っているのをずっと見落としていました。

 教職にあった頃は、この二種の辞書は、新版が出るたびにすみずみまで目を通したものですが・・・。“上岁数了!”年ですね。

(59)「於」さんは“於”さんです

 《新华字典》も《现代汉语词典》も、姓の場合に限って「鍾」の簡体字“锺”を認めていますが、姓に認めるからには、名にも認めてもよいのではないでしょうか。そうすれば、銭鍾書さんも晴れて“钱锺书”と署名できることになるのですが・・・。まあ認めても認めなくても、“锺”という字が正式に誕生した以上、今後、この字を名にも使う人が出てきそうな気がします。

 少しケースは異なりますが、知り合いに於さんという中国人がいて、この人は自分の名前を“于”と書かれるのをひどく嫌がります。“於”と“于”は古語で主に場所を示す前置詞として通じて使われ、今日では“于”のほうに統一されています。ただし、姓としては“于”(Yú)とは別に“於”があって、発音も異なっていて、第一声のYūです。

(60)“范”さんは「范」さんです

 姓の場合、“於”さんと“于”さんは異なりますので、日本語で表記する場合も、「於」と「于」は区別する必要があります。賢らに“于”さんを「於」さんとしたり、「於」さんを“于”さんと改めたりしてはいけません。

 もう一つ、よく見かける誤りに、「範」と「范」があります。どちらもハンですが、前者は「模範」の「範」、後者は姓に限って使われます。范仲淹(はんちゅうえん)(北宋の政治家・文章家)の「范」です。

 この二字が簡体字で“范”に統一されているところから、日本にいる何人もの“范”さんが「範」さんにされてしまっています。日本の漢字ではこう書くのだと、偉い先生から教えられたという人もいます。(イメージ写真提供:123RF)