日本経営管理教育協会が見る中国 第480回--坂本晃

■日本人の海外移民、満蒙開拓団の例

 私が現在の中国東北3省のひとつ、遼寧省鞍山市にあった鞍山中学3年生の第1学期、1945昭和20年春のことである。すでに日本は敗戦を目前に控えて、当時の満州にいた。当時は日本国籍であった韓国人を含む多くの日本人男性は、関東軍に徴兵された。当時20万人以上が従事していたと言われる満蒙開拓団も例外ではなく、農業に必要な男手が居なくなったのである。

 その穴埋めとして、当時の満州にあった日本人中学校の男子生徒が動員された。満蒙開拓団は満蒙開拓青少年義勇軍と合わせて、総数32万人とも27万人とも言われているが、開拓団の総数は、ネット上では見つけることが出来なかった。満蒙開拓平和記念館で入手可能な満州開拓民入植図には、団名が地図の上で明記されており、全くの勘で数えると100以上の団名が存在した場所に明記されている。

 私が動員された北満の老永府開拓団の名も、地図上に明記されていた。1945年6月12日から8月12日までの2か月間が動員の予定であった。お世話になった開拓団のお宅もご主人は徴兵されて、奥様と小さなお子様のいわば母子家庭の農業のお手伝として、同級生何人かとそのお宅にお世話になった。日本内地の畑と異なり、ひとつの畝を手入れをするのに、半日がかりだったぐらい広かったと記憶している。

 ソ蓮参戦は同年8月9日、動員終了の予定日8月12日はすでに参戦されており、両親のいる南満の鞍山へ戻る鉄道は、麻痺状態であった。ソ蓮軍が鉄道で南の方へ移動するのを途中駅で見送りながら8月下旬には、無事両親のいる鞍山に戻れた。

 1929年の世界大恐慌は日本にもおよび、とくに農村の疲弊が顕著に表れ、その対応として、1931昭和6年9月18日、中国で九一八記念日と呼ばれる日本の関東軍が起こしたと言われる満州事変が勃発、柳条湖事件をきっかけに、1932昭和7年には、現在の中国東北3省を地域とする満州国を建国、五族協和を旗印に、日本の農家救済のひとつの手段として満蒙開拓団を組織し、国の政策として開始したのであった。

 当初は農家救済であったが、後には失業者救済も行われたという。開始当時、すでに約3千万人の中国人や韓国人が農業を営んでいた農地を日本の国策会社、南満州鉄道株式会社の子会社が半ば強制的に買収し、開拓団員を入植させたと言われている。  都道府県別では長野県が圧倒的に多くの開拓団員を送り出した。それが元で長野県に写真の満蒙開拓平和記念館が設立されている。中には、中国人がもと農業を営んでいた土地をそのまま農業に従事させ、開拓団員は農業経営者として活躍したこともあったとのことである。

 戦後70年あまりの平和な期間に比べ、長くて15年の歴史の中で、日本の敗戦とともに満蒙開拓団は消え去る運命だったのであった。

■中国人の海外進出

 日本では歴史的に、政府や行政団体による日本人の海外移民は特に南米などに対して行われてきているが、中国では、そのような傾向は見受けられないように思える。

 しかし、世界の人口の2割弱、人口13億人を擁する中国では、民間による中国人、華人は、全世界に進出している。欧米のそれなりの都市には、中華料理店が営業をしており、パン食に飽きた日本人にとってお米のご飯が食べたくなったら、そこへ行けばお米を使用した食べ物が食べられる。

 実際に中国人が進出している国で、その数が多い順に紹介してみよう。トップはインドネシアの767万人、2位タイの706万人、3位マレーシアの639万人、以下アメリカ346万人、シンガポール279万人、カナダ136万人、ペルー130万人、ベトナム126万人、フィリッピン115万人、ミヤンマー110万人が上位10位である。以上10か国を合計すると3.334万人、全人口13億人として2.5%になる。

 ちなみに中国人の日本滞在数は66万人と言われている。日本への在留外国人数238万人の内、3割弱を占めていることになる。

 逆に日本人の海外滞在者数は約134万人であり、日本の人口の1%強と、中国人に比べて半分ぐらいの割合しか、海外に進出していないことになる。

 その理由として、日本は四面海に囲まれ、気候的、経済的にも相対的に住みやすい場所といえよう。反面、外国からの移民を受け入れることが欧米などと比べて難しいのが現状である。(写真は長野県にある満蒙開拓平和記念館。提供:日本経営管理教育協会)