(53)テレビは「電視机」?

 この話、一度どこかで書いたような気がします。いや、「書いた」のではなく「話した」だけかもしれません。いずれにしても近頃、元からかな?「気がする」とか「かもしれない」が多すぎますね。

 話というのは、もうずいぶん昔のことですが、『朝日新聞』の「天声人語」欄の書き出しに、「中国ではテレビのことを電視机というらしい。机(つくえ)とは言い得て妙だ」とありました。おぼろげな記憶ですから、もちろん原文どおりではありません。お恕しください。

 もちろん、「机」が「機」の簡体字であることを知らなかったことによる無邪気な誤りです。

 現代の中国語では「つくえ」の意味で「机」を使うことはありません。ですから、発音が同じであるところから、「機」の簡体字として“机”を使っても混乱が起きることはありえません。

(54)「幾」はすべて“几”に

 ところが日本語の場合は、「機」と「机」がともに発音がキであるところまでは問題がないのですが、「机」が「つくえ」の意味で日常的に使われていますので、この字を「機」の代わりに使うわけにはいかないのです。

 中国語では「機」の簡体字として“机”を用いるだけではなしに「機」の字の旁(つくり)の「幾」そのものに“几”を当て、しかもこれを一律に「幾」の字を旁(つくり)として含む漢字に適用することに定めています。

 したがって、「機」→“机”のほかにも、「譏」「璣」「饑」なども、それぞれ“讥”“玑”“饥”などと簡略化されることになります。

(55)「机」が邪魔に

 もっとも、「機」→“机”の場合とは違って、「几」の字は「小机」、「物を置く台」の意味で古くから使われていて、今日も“茶几”(chájī――茶器などをのせる小机)、“条几”(tiáojī――壁際に置いて花瓶などを置く長テーブル)などの語として生きています。

 では「幾」の簡体字としての“几”と本来の“几”とが混同される恐れはないか。その心配はなさそうです。なぜなら、“茶几”や“条几”が出てくる文脈と、「幾」の簡体字が出てくる文脈とは異なっているからです。

 というわけで、中国語の場合は「幾」を“几”に簡略化し、これを一律に旁(つくり)として用いることになんら問題はないのですが、日本語の場合はどうしても「机」が邪魔になってしまいます。

(56)本をつかんだから「鍾書」

 「さかずき」を意味する「鍾」と「かね」を意味する「鐘」とは、どちらも同じzhōngという発音であるところから、簡体字は“钟”に統一されています。

 中国語としては大きな問題はないのかもしれませんが、日本語の漢字に戻す際にしばしば混乱をきたしているようです。鍾馗(しょうき)様の「鍾」の字を「鐘」としている本に出会ってびっくりしました。「知音」の故事で有名な、伯牙(はくが)の親友の名は「鍾子期」でなければいけません。

 ハチャメチャ小説(と決めつけるのはよくないかな?)『囲城』を書いた銭鍾書さんの「鍾」は、この字に「集める」という意味があるところから来ています。銭さんは初めての誕生日の儀式“抓周儿”(zhuāzhōur)で書(本)を手にしたのだそうです。この話どこかで書きましたね。(イメージ写真提供:123RF)