(49)「藝」の新字「芸」を嫌う人がいる

 『文藝春秋』という月刊誌はご存じの方も多いことと思う。1923年(大正12年)に菊池寛が創刊し、今も続いている。発行元は株式会社文藝春秋。誌名も社名も旧字の「藝」を用い、常用漢字の「芸」を使わない。

 「藝」を略して「芸」と書くことを嫌う人は、けっこういる。例えば先年亡くなった丸谷(まるや)才(さい)一(いち)さん。わたくしの大好きな作家の一人であるが、この人は字体は原則として新字を使うとしながらも、「ただし新字のうちひどく気に入らないもののときは正字」を使うとして、気に入らないものの例の一つとして「藝」→「芸」を挙げている。

(50)「芸」はウンと読みたくなる

 「藝」を「芸」としたのは、見てのとおり、真ん中のゴチャゴチャした部分をあっさり省略して草かんむりと「云」の字を残したものである。

 「藝」の字はゲイと読む。なぜそう読むのかはしばらくおくとして(実はわたくしにはうまく説明できない)、「芸」をゲイと読むについては、いささか抵抗感を覚える。「云」の字につられてウンと読みたくなるからである。

 中国語は「藝」の簡体字として“艺”を用い、発音はyìである。“乙”の発音がyǐであるところからきたものである。“艺”(yì)と“乙”(yǐ)では声調が異なるが、このことが実際の言語生活の妨げとならないのは、“元”(yuán)と“远”(yuǎn)の関係と同じである。

(51)簡体字“艺”は日本語では受け入れにくい

 中国語の簡体字“艺”は“乙”の部分が発音を示しているが、日本語の「乙」の読み方はオツまたはイツであるから、“艺”の字を採用してゲイと読ませるわけにはいかない。

 では、中国語の簡体字として日本語の「芸」を採用することはできないか。こちらも“云”の字の発音がyúnであることが妨げとなって、採用の見込みはまずない。

 中国語で「藝」の簡体字として「芸」を受け入れにくいことについては、さらにより大きな事情がある。それは「藝」とは無関係に「芸」の字がもとから存在することである。

 “芸”、今日の発音は“云”の部分が音を示していてyún。日本語でも、漢和字典の類は「藝」とは別に「芸」を収めてウンと読ませているが、実際に使われることは少ない。

(52)「藝」と「芸」は別字

 本来の「芸」(ウン、yún)は、名詞としては香草の一種。葉は書物の防虫に効果があるという。“芸香”(yúnxiāng)として《新华字典》や《现代汉语词典》にも収められているから、今日も使われるのであろう。

 また、「除草する」「くさぎる」の意味の動詞としても使われる。

 『論語』微子篇に孔子の弟子の子路がお伴をしていて一行から遅れ、杖を肩にして竹籠(たけかご)を荷なった老人に“子见夫子乎”(うちの先生を見かけましたか)と問う場面がある。

 老人はまともに取り合おうとはせず、“植其杖而芸”(杖を地面に突き立てると草を取りはじめた)とある。