(89)“孙子才画得很圆的圆圈呢”

 ひどい誤訳をしたような気がする。「気がする」とは心もとない話ですね。誤訳かどうかにさえ確信が持てないのですから。

 前回「孫の代になればまんまるいマルが描けるさ」と訳した“孙子才画得很圆的圆圈呢”である。文法の講義ではないが、この“才”は「…であってはじめて…」、つまり「孫であってはじめてまんまるいマルを描くことができる」。言い換えれば、「まんまるいマルが描けるやつは孫だ」。もちろんこの場合の孫、“孙子”は罵りことばである。

 「孫の代になれば」と自らを慰めていると読むよりも、阿Q独特の「論理」で、「まんまるいマルを描けるやつなんてろくでなしだ」と強がっていると読んだほうが面白そうだ。

(90)駒田訳に軍配か

  彼は思ったのだ、孫の代になったら真ん丸い輪がかけるだろうと。(角川文庫版増田渉訳)

  おいらの孫の代になればまんまるいマルが書けるさ。(岩波文庫版竹内好訳)

  彼はこう考えたのである。ろくでなしなら、まんまるい丸が書けるんだと。(講談社文庫版駒田信二訳)

 三先生とも大先輩の中国文学者である。増田渉は魯迅晩年の弟子であり、わたくしの恩師でもある。竹内好は硬骨の魯迅研究者として知られる。増田渉の友人で、その縁でわたくしも何度かお会いしている。駒田信二は作家としても名を知られる文筆家である。

 ここは二対一でというわけにも行かない。まだ決しかねるが、わたくしの心は駒田訳に傾きかけている。

(91)“这岂不是去杀头么?”

 ストーリーに戻る。振り向くことはできなかったが、阿Qははっと気がついた。これは首をちょん切られに行くのではあるまいか。

  他一急,两眼发黑,耳朵里喤的一声,似乎发昏了。然而他又没有全昏,有时虽然着急,有时却也泰然;他意思之间,似乎觉得人生天地间,大约本来有时也未免要杀头的。(ハッと思った瞬間、彼は目がくらみ、耳がガーンと鳴り、気が遠くなりそうになった。だが彼はまったく気が遠くなったというわけではなく、いらいらするかと思うと、落ち着き払ってもいた。彼は頭の中で、人としてこの世に生まれたからには、時には首をちょん切られることもあるだろうと、ぼんやりと考えていた。)

(92)“怎么不向着法场走呢?”

  他还认得路,于是有些诧异了:怎么不向着法场走呢?他不知道这是在游街,在示众。但即使知道也一样,他不过便以为人生天地间,大约本来有时也未免要游街要示众罢了。(彼はそれでも道だけは覚えていた。それで、何だかおかしいぞと思った。どうして刑場の方へ向かわないのか? 彼はそれが引き回しであり、見せしめであることに気がつかなかったのである。だが、気がついたとしても同じことである。人としてこの世に生まれたからには、時には引き回されることもあるだろうし見せしめにされることもあるだろう、と思うだけであっただろう。)

 またも阿Q独特の気持ちの切り換え、あきらめのよさである。(執筆者:上野惠司)(イメージ写真提供:123RF)