(29)那不过是几口破衣箱

 挙人旦那の黒い篷船“乌篷船”が深夜に趙家の船着き場に乗り着けてきたことについての茶館や酒屋でのもっぱらのうわさは、“革命党要进城,举人老爷到我们乡下来逃难了”(革命党が城下に入ってくるので、挙人旦那はこの村へ避難してきたのだ)というものであったが、趙家の隣に住んでいる鄒(ツォウ)七(チー)嫂(サオ)の説はこれと異なった。彼女が言うには、

  那不过是几口破衣箱,举人老爷想来寄存的,却已被赵太爷回复转去。(あれはただのいくつかの古びた衣裳箱で、挙人旦那が預かってくれと言ってきたのだが、趙太爺に断られて持って帰ったのだ。)

 “回复转去”の“回复”は断る意。“转去”は南方方言で、“回去”に同じ。

(30)赵太爷肚里一轮

 隣に住んでいる鄒七嫂が言うのであるからそれだけに見聞も確かで、この説のほうが正しいのであろうが、風説は乱れ飛んだ。

 挙人旦那は自分でやってきたのではないらしいが、長い手紙をよこして、趙家とは“转折亲”(回り回っての親戚)であると言ってきたそうだ。

  赵太爷肚里一轮,觉得于他总不会有坏处,便将箱子留下了,现就塞在太太的床底下。(趙太爺はさっと胸算用して、どのみち損はあるまいと考えて、衣裳箱を預っておくことに決め、今は奥方の寝台の下に押し込んであるそうな。)

(31)穿着崇正皇帝的素

  至于革命党,有的说是便在这一夜进了城,个个白盔白甲:穿着崇正皇帝的素。(革命党については、一説では、その夜のうちに城下に入ったが、白い兜(かぶと)に白い鎧(よろい)、すなわち崇正皇帝のため喪服姿であったと言う。)

 “白盔白甲”の“白甲”は白いかぶとではなく白いよろい。「甲」を「かぶと」と訓(よ)むのは誤って伝わったもの。なお、中国では服喪その他の凶事には白を用い、吉事には赤を用いた。

 崇正皇帝は明朝最後の皇帝である崇禎(すうてい)帝のこと。農民反乱と清の南下に苦しめられ、李自成の北京攻略により自殺。在位1624-1644。清末革命軍の蜂起を田舎の人は単純に崇正帝のための復讐と考えていたのである。

(32)未免也有些“神往”了

 阿Qはもともと早くから革命党ということばを耳にしていたし、また先に城内で革命党が殺されるのを自分の目で見てきてもいた。だが、彼はどこで仕入れてきたのかはわからないが、革命党とは「造反」であり、「造反」は自分にとって不都合なものであるという意見を抱いていた。それゆえにこれまでずっと“深恶而痛绝之”、深く憎んで激しく排撃してきたのであった。

 ところが、“殊不料”まことに意外なことに“百里闻名的”百里四方に名を知られた挙人旦那をさえこれほどまでに恐がらせたとあっては、“未免也有些‘神往’了”、いささか「こうこつ」たる気分にならざるをえなかったのである。加えて、未荘の“一群鸟diǎo男女”、ロクでもない連中の慌てふためく様子は、阿Qをいっそう愉快にした。(執筆者:上野惠司)(イメージ写真提供:123RF)