日本経営管理教育協会が見る中国 第445回--坂本晃

■北方領土4島返還を巡って

 四方海に囲まれて、陸地での国境を近年経験してない日本に、永年生活していると、世界での国境を巡る争いが他人事のようにも感じる。しかし、第2次大戦終戦1945年8月15日間際、1945年8月9日に1941年に5年間の有効期限で締結していた日ソ中立条約をソ連邦は破棄、当時実質的に日本が支配していた旧満州などに侵攻してきた。旧樺太(南樺太)や、1948年ごろに日本人は日本へ引き揚げたとされているが、当時人口が5千人弱と推計された千島列島の北方四島へも侵攻した。

 日本は北海道東端に近い北方四島、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島を日本の領土と主張しているが、日ソ平和条約が締結されていない戦後70年を経た2016年暮れの日ソ首脳会談でも決着は見られなかった。

 北方四島は漁業が経済の中心であったため、海底資源の問題は不明であるが、日本の食料問題は世界規模でとりあえずは充足している今日では、日本全体のGNPへの貢献では、期待薄といえよう。

■樺太を振り返る

 写真は2016年12月3日撮影の北海道最北端、日本の最北端でもある稚内市宗谷岬の記念碑である。晴れた日には約40km先の樺太が見えるという。東京から約100km先の富士山が見えるのだから見えても不思議ではない。

 樺太の南半分、北緯50度から南は第2次大戦終戦までは日本の領土であった。日露戦争後の1905年締結の日露ポーツマス条約で南半分がロシアの領土から割譲され、日本の領土となったのである。

 日本に帰属してからは、日本人の手で、製紙業、漁業、林業などの経済活動により、1945年終戦時には人口40万人が生活できるようになっていた。稚内から大泊(現コルサコフ)まで、当時の鉄道省による国鉄が2隻の稚泊連絡船を1日1往復8時間かけて運航していた。1940年10月号の時刻表では時刻が掲載されているが1942年11月号では、潜水艦攻撃をさけるために掲載されていない。

 鉄道は東海岸添いと西海岸添いに敷設され、中央に東西を結ぶ、途中の山越えにループ線がある連絡線が敷設された。現在ではロシアの手で樺太の北の端まで開通しており、日本からの観光客も利用でき、ブルートレイン相当の寝台も人気である。

 樺太で忘れてはならない悲劇があった。当時の樺太の中心都市にあった真岡郵便電信局で1945年8月20日に、勤務中だった電話交換手が「皆さんこれが最後です。さようなら さようなら」との連絡を最後に9人が日本軍の命令で服毒自殺したのである。稚内公園にある記念碑に記されている。

■中国東北地方のこれまで

 中国が清朝時代、当時のロシア帝国が首都モスクワから領土として東端のウラジオストックへ東西を横断する鉄道を計画し、シベリアを遠回りせずにすむ、中国内を直進できる満首里から綏芬河への東清鉄道本線、さらに旅順や大連を結ぶ支線建設も清朝との間で合意し、1903年建設を完了した。

 1905年の日露戦争終了後、1906年に日本が経営する南満州鉄道がその権益を引き継ぎ、満州国を独立国にするなど、現在の中国東北3省を日本が実質支配し、1945年まで、日本人120万人が生活する経済圏となった。狭い日本に住み飽きた日本人が、とくに日本の東北からの農民が大量に開拓団として入植したりした。

 現在の長春などで都市計画づくりが進められ、日本人学校も小学校から中学校まで建設され、実質的には日本人の租界ともいえる企業城下町的な町作りも行われた。

 私も半年間だけ在籍した現在の遼寧省鞍山市の鞍山第一中学校(日本で言えば高等学校)は、1923年に日本の手で創立された日をもって現在でも創立の日として、遼寧省有数の進学校として存続している。

 ロシアの主な領土が北に位置し、南の暖かい土地・領土を求める心情には同情できるが、人類が限られた地球での共存を求められている現在では、共存共栄を図りたいものである。(執筆者:日本経営管理教育協会・坂本晃氏)(写真は日本の最北端宗谷岬、日本経営管理教育協会が提供)