(13)「上巳」上旬の巳(み)の日
 わかりにくいと言えば、三月三日の「上巳(じょうし)」もわかりにくい。

 「上巳」という語の意味は「上旬の巳(み)の日」である。旧暦一月の「人日」に続く三月の節句にこの日を当てたのであるが、のちに「重陽」すなわち陽数が重なることを重視して、巳の日であるかどうかにかかわらず三月三日を節句に定め、呼び方だけは相変わらず「上巳」を用いたのである。

 手元の辞典では『岩波国語辞典』が「陰暦三月三日の桃の節句」とのみするのは、不親切である。『新明解国語辞典』は「最初の巳(み)の日の意」と注記してはいるが、その節句がどうして三月三日に行われるのかに触れていないのは、やはり不親切であろう。

(14)流水のほとりで禊(みそぎ)を行う日
 本来三月の上巳の日に行われる節句が陽数の重なる三月三日に変わったのは、文献によると魏以降のようであるが、それ以降も依然として上旬の巳の日に節句の行事を催すことがあったらしいことも、文学作品などから窺うことができる。

 ところで、わが国では早くからこの日を「桃の節句」、「雛の節句」などとしているようであるが、中国ではもともと流水のほとりで禊(みそぎ)をしてけがれを払った。王(おう)羲(ぎ)之(し)の「蘭亭集序」で有名な「曲水の宴」は、この習慣が転じて文人の遊びとなったもののようである。

 曲がりくねった水路の上流から觴(さかずき)を流し、自分の目の前を通り過ぎないうちに詩を作り杯を干すというこの遊びは「曲水流觴(りゅうしょう)」と称され、わが国にも伝わり宮中の遊びとして行われた。

(15)「端午」?「端五」?
 「上巳」が三月上旬の巳(み)の日なら、「端午」は五月の最初の午(うま)の日である。

 「端午」の節句が五月五日に行われるようになったについては、多くの国語辞典が「午」は「五」に通ずるところからとするが、先の「上巳」が陽数が重なる三月三日に固定したのと同じ理由で、「端午」も陽数が重なる五月五日に固定したと考えるほうが、より事実に近いであろう。もちろん固定化を促すうえにおいて「午」と「五」の発音が通じることが与(あず)かって力があったことは否(いな)めないであろうが。
「重陽」すなわち陽数の重なりを重視する立場からすれば、むしろ「端五」が先で、のちに「五」が「午」に通じるところから「端午」とも書かれるようになったとも考えられるが、どうだろうか。

(16)粽(ちまき)を食べて屈原を偲(しの)ぶ
 わが国では「上巳」が女子の節句、「端午」が男子の節句とされているようだが、中国にはそのような風習はなさそうだ。
 「端午」の節句にはわが国では、古来、邪気を払うため、菖蒲(しょうぶ)や蓬(よもぎ)を軒にさしたり、粽(ちまき)や柏餅(かしわもち)を食べる習慣があるが、中国ではもっぱら粽を食べる。

 いまさら解説するまでもなさそうだが、よく知られているように、この日は戦国時代の楚の愛国詩人屈(くつ)原(げん)が、妬まれて失脚し、汨(べき)羅(ら)江に身を投げた日とされる。

 粽は屈原の命日である五月五日にその姉が弟を弔うために餅を投じたのが起源であるとも、屈原を哀れんだ民衆が考案したものであるともされるが、もとよりいずれも言い伝えに過ぎないであろう。(執筆者:上野惠司 編集担当:サーチナ編集部)(イメージ写真提供:123RF)