(205)跡取りなしの阿Q!
先日,中国の友人を交えた気楽な雑談の場で,中国語には人をののしることばが多いけれど,いちばん効き目があるのはどの語だろうかという話になった。
“王八蛋”(wang2badan4)だろうという人もいれば,いや“他妈的”(ta1ma1de)だろうという人もいるなかで,中国の友人が言うには,やっぱり“断子绝孙”(duan4 zi3 jue2 sun1)でしょう。
“断子绝孙”は子も孫もいない,つまり「跡取りなし」くらいの意味である。魯迅の『阿Q正伝』に出てくる。ルンペン,古いかな?浮浪者くらいの意味です。このルンペン労働者の阿Qにからかわれた若い尼さんが,泣きべそをかきながら,“这断子绝孙的阿Q!”と阿Qをののしる。

(206)“不孝有三无后为大”
 その時は聞き流していた阿Qだが,ねぐらの土地廟に戻ってから,ふだんなら横になったとたんにいびきをかくのに,この晩はなかなか寝つけない。
    “断子绝孙的阿Q!”
    阿Q的耳朵里又听到这句话。他想:不错,应该有一个女人,断子绝孙便没有人供一碗饭,……应该有一个女人。(「跡取りなしの阿Q!」阿Qの耳にはまたこのことばが聞こえてきた。彼は考えた,そうだ,女房をもらわんことには。跡取りなしでは死んでも飯を供えてくれるものはいない,……どうしても女房をもらわんことには。)
  夫“不孝有三无后为大”。(そもそも「不孝に三有り,後(のち)無きを大なりと為す」だ。)

(207)“和尚动得”
 “不孝有三无后为大”は『孟子』の離婁(りろう)篇に見える語で,妻を娶(めと)らずして子無く,先祖の祭祀を絶やしてしまうことが最大の不孝であるというのである。
 この限りにおいては,死んだあと飯を供えてもらうために女房をもらわなければという阿Qの考えは聖賢の教えに合致するのだが,惜しむらくは,その後いささか「放心を収むる能わず」であったことである。
 “不能收其放心”の“放心”は『書経』の畢命篇に見える語で,放逸・放縦の意。
  “女人,女人!……”他想。
  “……和尚动得…女人,女人……女人!”他又想。

(208)“飘飘然”
 “和尚动得”(和尚ならかまわない)は,先に阿Qが尼さんをからかって,“秃儿!快回去,和尚等着你……”(坊主頭!早く帰れ,和尚さんが待ってるぞ)だの,“和尚动得,我动不得?”(和尚さんならいいが,おいらならいけないのか?)と言って,尼さんの頬(ほお)をつねったのを受けている。
 阿Qによれば,尼僧はすべて必ず和尚と私通するし,女が一人で外を歩いているのは,必ず男を誘惑するためであり,男と女が二人きりで話し合っているのは必ず……,というのである。
 阿Qとて本来まじめな人間で「男女の別」についてはこれまですこぶる厳格であった。その阿Qが「而立(じりつ)」に近い年になって若い尼僧のために“飘飘然”ふわふわになってしまったのである。この一事をもってしても女のまったく憎むべき存在であることがわかる。もとより屁(へ)理屈である。
(執筆者:上野惠司 編集担当:大平祥雲)(イメージ写真提供:123RF)