(201)駅前に旅館があった
  春の夜や いやです駄目です いけません

 先に井伏鱒二にこんな戯(ざ)れ句(く)があると書いたところ,出どころを教えてほしいという人がいた。

 『駅前旅館』に出ているはずだと答えたら,何日かして,「探したが出てきません」と言ってきた。そんなはずはない。高校生の頃,わたくしは何冊かの文芸雑誌を愛読していた。「愛読」と言っていいのかな?立ち読みですから。

 『駅前旅館』はそんな雑誌のうちの1冊『新潮』に連載されていた。「駅前旅館」は今はもうすっかり見かけなくなってしまったが,戦後のある時期まで,たぶんわたくしの学生時代,ということは昭和30年代,つまり東京オリンピックが開催される頃までは,確かに存在した。

(202)番頭さんが揉み手をしながら
 はっぴを着た番頭さんが揉み手をしながら客引きをする。庶民的で宿賃も安いが,時に修学旅行や団体客とぶつかって安眠できなかったりもする。そんな駅前旅館の番頭を主役に旅館の内と外で繰り広げられる悲喜劇をユーモラスな筆致で描いたこの小説は,戦後風景を知る,というよりも楽しむうえで第一級の作品であると言っていいだろう。

 くだんの句は番頭仲間の一人高澤がちょっと悪ふざけをしているのを見た食堂のおかみさんが,「あら高澤さん,いやですわ。駄目です,いけません」とたしなめたのを受けて,高澤が図に乗って詠んだものである。その意を解したおかみさんは,「ふふふふ」と恥ずかしそうな含み笑いをした,とある。それだけのことであるが,おくての高校生には十分に刺激的であった。

(203)晩年まで推敲を重ねた井伏さん
 今,わたくしの手元に昭和60年から61年の間に新潮社から出た『井伏鱒二自選全集』全12巻と補巻1巻がある。この本は題名が示すとおり,1898年生まれの井伏が晩年自ら作品を選んで校定した,言わば「定本」である。井伏は1993年に没している。

 「出てきません」と言われて,早速,全集第5巻に収める『駅前旅館』の心当たりの箇所を探してみた。無い。そんなはずはないと,むきになって最初から最後まで読み通してみた。確かに無い。

 ボケたかと,こんな時に頼りになるO君に話したら,「有りますよ」と言って,古本屋で100円で見つけてきたという『驛前旅館』(新潮社,昭和32年)の該当箇所に付箋を貼って送ってくれた。大幅に手を入れた晩年の『自選集』では,該当箇所は削除されていたのである。

(204)ザイショノコトガ気ニカカル
 今回は(も?)中国語とも日本語ともまったく無縁の話で終わりそうだ。おしまいに,お詫びのしるしに,李白の『静夜詩』の井伏訳を紹介しておこう。
  牀前看月光  ネマノウチカラフト気ガツケバ
  疑是地上霜  霜カトオモフイイ月アカリ
  擧頭望山月  ノキバノ月ヲミルニツケ
  低頭思故鄕  ザイショノコトガ気ニカカル
 まさに名人芸。うまい!としか評しようがない。
(執筆者:上野惠司 編集担当:大平祥雲)(イメージ写真提供:123RF)