中国メディアの都市快報は23日付で、「日本に行って中国の古籍を求める」と題する論説を発表した。同論説は、日本では中国でも失われてしまった大量の古書が保存されてきたと紹介。戦前の1928年には、中国人研究者に皇室の図書寮文庫での閲覧を認めるなど、各段の便宜を図ったことにも触れた。

 記事はまず、日本は遣唐使の留学生が、大量の書籍を日本に持ち帰ったと紹介。貴人や寺院が適切に保存したため、中国ではすでに失われた書物が日本では大量に残ったと紹介した。

 日本でも多くの場合図書は私蔵されてきたので、多くの人の目に触れることはなかったと指摘。しかし明治維新で「西洋文明一辺倒」の状況になると、中国などの古書を売って西洋の書物を入手しようとする例が増えたと紹介。

 そのため、中国の文化人には日本に残っていた書物を購入しようという動きが発生した。代表的な人物としては、金石の専門家で外交官として1870年に来日した楊守敬がいた。楊守敬は六朝時代、さらに唐から清朝までに世に出た古書3万巻を中国に持ち帰った。中国では失われた古書も多く、例えば唐代初期に日本に渡った尚書(書経)の拓本もあるという。

 しかし、日本で明治初期の「西洋文明一辺倒」の熱がさめると、日本人は再び中国の歴史的書物を集め始めた。1907年には、清朝末期の四大蔵書化として知られた陸心源が収集した15万巻がすべて、日本人に売られた(解説参照)。(イメージ写真提供:123RF)

 すると中国人学者で、日本を訪れて古書を求める動きが改めて盛んになったという。

 張元済は1928年に日本を訪問。日本側は特別な便宜を図り、張元済が皇室の図書寮文庫に立ち入ることも認めた。

 さらに、陸心源の蔵書を補完していた静嘉堂文庫も張元済を受け入れた。張元済は3カ月にわたり、昼間は図書を選び、夜は筆記作業を行った。静嘉堂文庫側はさらに、書面を撮影した大量の写真も提供した。

 張元済は中華民国時代に設立された出版社の商務印書館を50年間にわたり経営した。商務印書館は当初、実業所を出版したが、その後は古書の復刻版を多く出版するなどで、文化面で大きく貢献することになった。張元済の日本における活動は、中国で古書を改めて刊行する上で、大きな意味をもったという。

 張元済はその後も何度か日本を訪れ、自国の歴史的古書についての研究を重ねた。

 記事は最後に「全体的に言って、清末から民国の約50年間で、日本で収蔵されていた中国の歴史的古書、特に東京一帯の古書は、中国人が訪日して確認することになった。この訪日活動は両国の文化交流を促進しただけでなく、わが国の歴史的古書の収蔵をさらに豊富にした」と評価した。

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◆解説◆
 陸心源の蔵書売却は中国で「スキャンダル」とみなされた。陸心源は1894年に没しており、蔵書を売却したのは息子の陸樹藩だった。

 中国メディアの人民網は2011年に、同蔵書の「日本流入の真相」を紹介する記事を発表した。陸樹藩も父親の薫陶を受け、書物や目録作りの体系などを学んだ。しかし1900年に発生した義和団の乱と、それに伴う八カ国連合軍の天津・北京侵攻で大量に発生した難民を救うために、陸樹藩は慈善事業を開始した。書物の売却は、その資金づくりのためだったという。

 陸樹藩はその後、仏門に入り、孤児院を運営し、出来るだけの学問を指せて人材として育成した。

 中国でよく使われるインターネット百科事典の「互動百科」は、日本に売却された陸心源の蔵書について、東京で保管されていた古書の多くが関東大震災の火災で燃えてしまったが、陸心源の蔵書を収蔵していた静嘉堂文庫は燃えなかったとして、当時の日本人が「天の計らい」と喜んだことを紹介。

 さらに、蔵書は中国で発生した北伐、抗日戦争、国共内戦の被害も受けず、日本に渡って現在も「世界文明のひとつ」として保存されていると評価。日本軍には中国で古書を強奪する行為があったが、同蔵書は日本人が代価を支払って購入したのであり、両者を混同してはならないと紹介した。(編集担当:如月隼人)