香港に拠点を置く衛星テレビ「鳳凰衛視台(フェニックス・テレビ)」系列で、中国大陸住民も主要な読者とするニュースサイト「鳳凰網」は20日「日本がフィリピンで擁立した傀儡指導者はなぜ、第二次世界大戦後に尊敬を受けたのか?」と題する記事を掲載した。

 同記事は、中国の高齢者向け情報紙「快楽的老人」10日付が掲載した「インドとフィリピンの傀儡指導者は戦後に尊敬を受けた」の転載という。

 記事はまず、「第二次世界大戦期、日本は大東亜地区で多くの傀儡指導者を擁立した。汪精衛だけでなく、インド、フィリピン、ミャンマーにもいた」と紹介した。

 汪精衛は「号」で、日本では本名の汪兆銘と呼ばれることが多い。「日本とは戦うべきでない」との信念で、蒋介石と決裂して日本と協調的な南京国民政府を樹立した。日本側が当初の約束を違えて、汪兆銘の要求内容を大幅に削減して不本意だったが日本との協調を続けた。

 1944年に名古屋で病死した。遺体は南京郊外に埋葬された。汪兆銘が日本と協調した本意は「莫大な戦争被害は中国の命取りになる」だったとされる。自分が後世に「裏切り者」とみなされるのは覚悟で、墓はコンクリートで固められていた。しかし国民党軍は戦後の1946年に、汪兆銘の墓を爆破し、遺体を焼いて野原に捨てた。

 本人の予想通り、汪兆銘は中国で今も厳しく批判されている。人々は「裏切り者の末路は哀れ」といったニュアンスで語る。

 それだけに、中国人にとってインド、フィリピン、ミャンマーの傀儡政権担当者が、人生の大きな浮沈はあったとしても、戦後も「尊敬」されているとすれば、「極めて意外」ということになる。

 記事はまず、英国支配下にあったビルマ(現:ミャンマー)の独立運動を行い、英国の撤退後には日本軍(南機関)によりビルマ国初代大統領になったバー・モウを取り上げた。日本が敗北して米国に捕えられたが(実際には英軍に出頭)と紹介し、ビルマに帰国したが、ネ・ウィン将軍の軍事政権で2年あまり監獄に収容されるなど「晩年は凄惨だった」と報じた。

 インド独立運動を行ったスバス・チャンドラ・ボースについては、日本やドイツを頼り自由インド仮政府を樹立と紹介。日本が配色濃厚になっても武装闘争の信念を変えなかったが、台湾・台北の松山飛行場で乗機が事故を起こし死去したと伝えた。

 フィリピンにつついては、日本軍政下で大統領を務めたホセ・ラウレルを取り上げた。業績としては、第二次世界大戦中に日本がフィリピンで徴兵しようとしたことを、極力阻止したことと紹介した。

 上記記事は、第二次世界大戦中に日本に協力したインド、フィリピン、ミャンマーの重要人物の「挫折」だけを敢えて取り上げているように見える。見出しとのかなりのギャップは「それ以上に踏み込むことをためらった」可能性がある。

 例えば、ミャンマーで一時期は日本軍と共闘したアウンサンについては触れていない。アウンサンは「ビルマ建国の父」と呼ばれる。アウンサンスーチーは長女だ。

 インドのボースについては、英国が戦後になりボースが率いたインド国民党幹部を裁判にかけようとしたところ、各地でインド人が反乱を起こた。英国は裁判を中断し、インド支配の継続を断念したとされる。インド独立に果たしたボースの功績は、現在でも高く評価されている。

 フィリピンのホセ・ラウレルは戦後、反逆罪で訴追されたが、マニュエル・ロハスの恩赦で釈放された。その後、1951年には上院でトップ当選するなど、57年に引退するまで、政界で活躍した。(編集担当:如月隼人)(イメージ写真提供:(C) rook76 (Follow)/123RF.COM。インドで発行されたスバス・チャンドラ・ボースの肖像を印刷した切手)