鳩山由紀夫元首相が12日、韓国のソウル市内にある西大門刑務所歴史館を訪問し、記念碑に向い正座して手を合わせ、続いて平伏した。

 日韓、そして中国メディアも速報した。中国メディアは13日になると、環球網が「鳩山元首相がひざまずいた。日本の最も尊厳ある瞬間」との社説を掲載するなど、高く評価しはじめた。

 西大門刑務所は日本統治時代に建造された。現在は歴史館として、独立運動を行った政治犯などに対する拷問の様子などを多く展示している。

 日本の戦前の特別高等警察(特高)などは容赦ない拷問を行った。西大門刑務所でも多くの拷問や暴力行為が存在したことは間違いない。鳩山元首相は展示に接して衝撃を受け、ひれ伏して慰霊と謝罪をした。

 首相経験者から「元首相」という肩書は切り離せない。首相は一般に「日本を代表する人物」と見なされ、退任後もそれに準じる存在とされる。望んでなったからには「自ら選んだ責務」ということだ。

 現役の首相ならば、周囲には意見を具申する人が多くいる。各種情報が集約される仕組みもある。しかし首相でも国会議員でもなくなれば、そうではない。結果として「個人の思い込み」で突っ走りやすくなる。「元首相」の肩書には、そういう“あやうさ”がある。

 日本には思想、信条、表現の自由がある。だれにでも、西大門刑務所で「地に平伏」して謝罪する自由はある。しかし元首相の行為は「日本人の考えの潮流」のような印象を与えかねない。「肩書の重さ」とは、そういうことだ

 日本には「できる限りの謝罪をしていくことが責務」と考える人もいる。「謝罪を繰り返すだけではよい未来を築けない」との主張もある。そして元首相が不用意に“土下座”すれば、多彩な意見を一色に塗りつぶして見せることになりかねない。

 最大の問題は、鳩山元首相が「元日本の総理として、ひとりの日本人、人間としてここに来ました」と述べたことだ。「元日本国首相」の肩書の“微妙さ”を理解しているとは思えない。せめて「あくまでも個人としての気持ち」と述べていたなら、そうは問題にしなくてもよかったところだ。

 鳩山元首相は「友愛」を信条にしている。個人として、政治家として「友愛」を理念とするのは、すばらしいことだ。しかし、「目先の“友愛的”行為」に飛びつくだけでは、「友愛にあふれる社会」から逆に遠ざかる場合もある。「友愛」という理念の実現には十分な配慮と、時にはしたたかな計算が必要だ。(編集担当:如月隼人)(写真は環球網の上記記事掲載頁キャプチャー)