1945年8月9日に長崎市内で原子爆弾に被爆した台湾人の王文其さんが27日、胆管炎で引き起こされた敗血症で死亡していたことが分かった。98歳だった。王さんは生前、「戦争から教訓を得てほしい。同じ失敗を2度としないでほしい」と繰り返していたという。台湾の中央通信社などが報じた。

 王さんは日本の医科大学を卒業し、長崎医科大学付属病院で実習生として医療に当たっていた。原爆が炸裂したのは診察を行っていた時で、強い閃光が目に入ったことは覚えているが、その後はしばらく、記憶がないという。王さんがいた病院建物は、爆心から約700メートルの場所にあった。

 気が付くと、周囲は手や足がちぎれた死体だらけだった。生きている人はうめき声を上げていた。王さんも腹部の内臓が露出するほどの大けがを負っていた。建物に火が回ってきたので何とか脱出したが、ほどなくして再び気絶した。

 王さんを助けたのは三菱造船所で働いていた日本人女性3人だった。王さんを探していた台湾出身者と行き会ったので王さんを引き渡して去ったという。王さんは診療所に運ばれた。昏睡が約1週間続いた。

 王さんはしばらく血便が続くなど、放射線障害と見られる症状が出たが、その後は特に健康障害が出なかった。日本で約2カ月にわたり療養をした後、台湾に戻った。

 王さんによると、命を失いかけたことがもう1度あった。台湾で1947年に発生した2.28事件の時だった。同事件では中国から進駐した国民党政権により、「日本と関係が深かった知識分子」の多くが殺害された。裁判がない場合も多く、あっても「死刑などの有罪判決が最初から決定」している場合が多かったという。

 王さんも捕まったが、裁判関係者にかつての同級生がおり、すきを見て裏門から逃がしてくれたという。

 王さんはその後、5人の息子と2人の娘をもうけた。息子のうち3人は医師及び歯科医師に、1人は薬剤師になった。娘は2人とも医師と結婚した。王さん自身は90代まで医師として活動した。王さん一族は地元の嘉義市で「医療一家」として知られるようになった。

 王さんは「私は2度も死にかけた。だからその後は、『足りるを知る』人生観を持つようになった」と話していたという。

 戦争については、原爆投下直後の悲惨な光景に接し、自分も九死に一生を得たことから「戦争から教訓を得てほしい。同じ失敗を2度としないでほしい」と繰り返していた。

 最近になり、王さんに取材を申し込む日本人記者が増えつつあったが、王さんはそのたびに、自分の体験を詳細に語り、戦争の恐ろしさを訴えた。

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 王さんは戦後の長い期間にわたって、「日本国内で居住していない」との理由で、日本政府による被爆者対策の対象外とされてきた。日本政府の方針変更で、被爆者援護法が適用されることになり、被爆者健康手帳の給付を受け、毎月約9000台湾ドル(約3万3600円)が支給されることになったのは、2009年だった。

 台湾で被爆者援護法の対象に認定されたのは、王さんが初めてだった。王さんは支給金を自分のために使うことはせず、各種の寄付金とした。

被爆時に自分を救ってくれた日本人女性3人を「命の恩人」として、何度も訪日して捜したが見つからなかったことを、ずっと残念がっていたという。(編集担当:如月隼人)(写真は中央通信社の30日付報道の画面キャプチャ)