9月21日の、台湾・李登輝元総統の東京講演会に出かけた。李元総統は主に、これからの日本のあるべき姿について考えを語った。李元総統は、自らの結論に至るまでの思索を、かなり詳細に説明した。聴衆に対する「私の語ることを理解していただきたい」、「自分自身でしっかりと考えていただきたい」という伝え手としての誠意を強く感じた。そして、李元総統に続く世代の政治家で、ここまで物事を掘り下げて、思索を重ねている人が、どれだけいるだろうと考え込んでしまった。

 李元総統は、講演の冒頭部分でまず、日本国憲法、とくに軍事力を持つことを禁止する第9条を、「戦勝国アメリカが、日本を2度と、アメリカに歯向かわせないように押しつけたもの」と主張。自らの国を自らで守るという国際社会における原則を放棄した日本が、これまで危機的状況に遭遇することがなかったのは米国の支援と「幸運」があったからと論じた。

 そして、米国が凋落し、指導者たる国家がなくなった現在の国際情勢のもとで、日本は自らが生き残ろうとすれば「真の自立した正常な国家となる」ことが不可欠であり、そのためには憲法修正という問題に、向かい合わねばならないとの考えを示した。さらに軍事力を持つことと戦争をすることは同じではないと、繰り返し主張した。

 結論を論じた次に、李元総統の話はいよいよ、論点の中核となった。人類の平和、アジアの平和を求めるには、まず「人間とはなんぞや、から始めねばなりません」と主張。そして、人とはこの世に生まれてから、からならず「他者との分離」を通じて自我を形成すると指摘した。

 李元総統は旧約聖書の創世記から多く引用した。例えば、天地創造についての記述だ。「神の天地創造は『分離と区分』とにもとづいて混沌に道筋を与えることによって、なしとげられている」と指摘。「神は光と闇を分け、大空のもとに上と下に水を分けて天を作り、最後に乾いたところから水を分けて海と陸を作った」、「それまでおたがい溶けあったものを分かつことによって、初めて時間が成立する」、「光と闇、上と下、男と女、といった分離過程こそは、生まれると同時に飲み込まれる永遠の一体性に終止符を打つものである」などと説明した。

 政治の話の中で、なじみの薄いキリスト教関連の説明が続いたことで、やや戸惑いを感じた聴衆がいたのも事実だ。しかし、李総統の論旨は、その後に続く部分で、極めて明確になっていった。

 まず、人とは、生まれた当初は周囲の世界をすべて「混沌」としたものとしか認識できていないが、やがて「自我」と「他者」を異なったものと認識するようになるという事実だ。さらに言えば、他者を自らとは異なったものと認識することこそが、「自我」の出発点だということだ。

 李元総統は、このような「自我」の確立には勇気が必要とも述べた。さらに「自我」と「他者」の存在をはっきりと認めてこそ、「人間の生は戦いであるのみでなく神から許されたよろこびでもあり、苛酷な労働であるのみでなく、神の贈り物でもある」、「生きることを喜び、ほろびゆく人間ははじめて、自己と異なる他者の存在とも連携・連帯していける」と説明。

 李元総統は聖書の引用に加えて、「人類の古い神話はそのシンボルとして個人の生活史の中で繰り返される生命の原理を示すゆえに、きわめて実際的な意味を持っていることがわかる」と述べた。つまり自らの信仰とは別に、聖書の記述を「人類の古い神話」、「シンボル」と説明することで、議論を「キリスト教(あるいはユダヤ教)信者でなくとも、多くの人が納得できる」ものにするように努めた。李元総統はさりげなくつけ加えただけだが、発言のこういった部分からも、台湾に民主的社会をもたらしたリーダーとしての「深み」を感じた。

 このあたりで、李元総統がなぜ、平和の問題を語るのに聖書の引用を行ったかが、明らかになりはじめた。人は、自我とは異なる他者の存在をしっかりと認めねばならないということだ。国際社会の問題を考える上でも、自国とは立場も利益も主張も発想も異なる他国が厳然と存在していることを認識せねばならない。

 相手が自分と同じように考え行動すると無条件かつ安直に信じることは、むしろ甘えでしかない。そして自己が存在する喜びを知り、同時に他者の存在をしっかりと認識してこそ「自己と異なる他者の存在とも連携・連帯していける」との考え方だ。

 日本などでは、キリスト教的な発想について「人と自然を対立的にとらえている」、「人が自然を支配することが前提」との批判的見方がある。はなはだしい場合には「自然破壊の元凶となる発想」との主張すらある。

 李元総統は、「自己」と「他者」のそれぞれの存在をしっかりと認めることにより、自然との共生にも目を開かざるをえなくなると主張。自然を他者であるとしっかり認識せねば、「自然の生命の無限性に甘える」ことになりかねず、むしろ、「自然もまた同じ神の被造物であり、有限の生命を持つ」と認識することが重要であり、「自然の権利を守るためには、自覚的人間の管理の責任が問われる」と主張した。

 李元総統の自然観は、日本人の伝統的な自然観とは異なる面がある。日本人の多くは「人と自然は一体のもの」と考えてきた。しかし考えてみれば、人類の産業活動がこれほど活発になった現在、「人と自然は一体」と無頓着に“感じて”いるだけでは、人の都合を自然の側に安直に押しつけかねないとも言える。その意味で、李元総統の「自然を他者と考え、自然の側が持っている権利をしっかりと守る」という自然観は傾聴に値する。

 写真はサーチナ編集部が撮影。李元総統は平和と戦争の問題を「人間とは何か」という思索から説き起こし、哲人政治家としての本領を改めて示した。

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 日本人には、周囲との一体感を重視する発想が強いとされる。もちろん、「一体感重視」という日本人の傾向が、よい結果をもたらした事例は枚挙にいとまがない。例えば、東日本大震災発生直後に多く見られた「団結心」だ。自らが何らかの「チーム」に属していると感じた時、日本人は自らを「チーム」と一体と感じ、突出した底力を発揮することが多い。

 しかし、周囲との一体感ばかりを重視したのでは、「甘え」というよくない現象が発生しやすいのも事実だ。李元総統は、「自己」と「他者」の関係で、対決だけが存在すると説いたわけではない。むしろ、他者との連帯・連携・共生を得るに至る心のメカニズムを強調した。

 李元総統の主張をさらに延長すれば、同じチーム内に「異なる自己と自己、つまり自分自身と他者が存在する」と認識していても、それがチームの結束を減じる原因にはならないことになる。チームの結束が崩れるのはむしろ、他のメンバーに甘えあうことで蓄積された矛盾が表面化した場合に起こるが多い。つまり、甘えを先行させるのではなく「同じチーム内であっても、他者には他者としてきちんと向き合わざるをえない」との李元総統の考え方はむしろ、日本人が持つ団結心や他人を思いやる心をより上質なものにしていくための、大きなヒントとなるものだ。

 李元総統の「自己・他者観」、「世界観」は講演の続きの部分の、「母との“別れ”」、さらに「平和と戦争の問題」の部分で、いよいよ明らかになる。(続く)(編集担当:如月隼人)