「台湾と中国は別の国」を主張する政治団体、公投護台湾聯盟のメンバー十数人が22日午後、台南市内の湯徳章紀念公園内に設置された孫文(孫中山)の像を引き倒した。同件には、台南市当局が2013年にいったん孫文像の移転を決めたにもかかわらず、国民党員らが35日にわたり現場に立てこもり、阻止していた背景のあることが分かった。

 現場は国民党に虐殺された湯徳章を記念する公園で、市の史跡に指定されている。湯氏は1907年に台南で生まれた。父親は日本人で、日本本土で現在の司法試験の機能も兼ねる高等文官試験に合格し、弁護士の資格を取得。その後、台湾に戻った。

  戦後になり国民党政権が台湾人を大弾圧した1947年の二二八事件が発生すると、湯氏は台南市の治安組長に選出された。同年7月には、台南過渡時期市長に選ばれたが、国民軍にとらえられ、公開銃殺された。その後、裁判所は湯徳章氏の無実を認定した。

 台南市政府は1998年、湯氏が公開処刑された緑地を湯徳章氏記念公園と改名し、その後史跡に指定した。

 2013年2月28日、台南市の各界有志が湯徳章記念公園内の孫文像を撤去するように市長に請願した。孫文像は設置されてから50年ほどになっていたが、湯徳章氏を記念する公園にはふさわしくないなどの理由だった。。

 市側は8月に、銅像の土台部分が損傷していたために、安全上の理由からも撤去せざるをえないと決定。すると国民党員が35日にわたって現場に立てこもって阻止し、「国父(孫文を指す)を救う1人10元(台湾ドル、約33.6円に相当)の募金運動」も展開した。

 国民党は9月26日、募金活動で集めた12万1200台湾ドル(約40万7000円)を市政府の口座に振り込み、孫文像の修繕と現在の位置における保存を求めた。その後、市当局側に目立つ動きはなかった。

 中国国営の中国新聞社は、政府の決定に反して像の移転を実力阻止した国民党党員を「現場に設営し35日間にわたって孫文像を守った」と紹介した。

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◆解説◆

 湯徳章氏の父親の本来の姓は坂井だったが、新居家の養子になっていたので、湯徳章氏の本来の姓も新居だった。

 湯徳章氏は小学校卒業後に台南師範学校に入学。卒業後は警察に就職した。警察就職時は年齢が不足していたが、抜群の成績だったので異例の採用になった。その後、日本の中央大学に入学し、卒業後は高等文官試験に合格して弁護士の資格を得た。

 湯徳章氏は中央大学卒業後に台湾に戻り「自分は台湾人だ」との意識にもとづき湯徳章と名乗るようになった。

 日本が第二次世界大戦に敗れて国民党政権が台湾を摂取すると、浙江省出身の陳儀台湾省行政長官が、湯氏に省公務員訓練所の所長に就任するよう求めたが断り、台南市南区区長に就任。

 国民党政権が台湾人を大弾圧した1947年の2.28事件が発生すると、湯氏は台南市の治安組長に選出された。同年7月には、台南過渡時期市長に選ばれた。

 国民党軍は台南に侵攻し、湯氏を逮捕・拷問した。湯氏は1晩の拷問で肋骨をすべて折られたという。国民党側は湯氏に反乱罪を適用して、台南市内を引き回した上で、民生緑園、大正公園などと呼ばれていた公園で公開銃殺に処した。湯氏は処刑場につめかけた市民に対して微笑んでから銃殺されたという。

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 台湾では1945年に日本の統治が終了する以前からの住民とその子孫を「本省人」と呼び、戦後に国民党の台湾進出と中国大陸からの撤退にともない台湾に移り住んだ人やその子孫を「外省人」と呼ぶ。

 「外省人」は台湾人口の10%あるいはそれ以下とされる。「外省人」は「台湾は中国の一部」との意識を持ち、孫文は「中華民国の国の父」とみなす場合が多い。

 「本省人」にとって孫文が成功させた辛亥革命が発生したのは日本統治時代の1911年であり、孫文は仮に革命家として評価したとしても「別の国の人物」となる。

台湾人としての強い自覚を持ち、故郷のために懸命に活動したにもかかわらず大陸からやって来た国民党に無実の罪で殺害された湯徳章氏を記念する史跡に、「大陸の革命家」の像が設置されていることに反発を感じるであろうことは、容易に想像できる。(編集担当:如月隼人)